一方で「論理的脱構築(デリダ的な脱構築とは区別される、否定神学的な脱構築のことーー引用者注)」とは、まず(1)所与のシステム(あるいはテクスト)を形式化し、つぎに(2)そこに自己言及的な決定不可能性を見出し、最後に(3)そのポイント(あるいは穴)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考です。逆説的にというのはそこでは、問題のシステムはつねに、安定性を欠きつつも、まさにその不安定性によって安定しているものだとして説明されるからです。 (「デリダの可能性の中心を読むために」、『批評空間』第2期18号所収)
『存在論的、郵便的』では、「《そうであったかもしれない》可能性」が排除される、「超越論的歴史」の記述からいかに逃れうるのかが執拗に検討されている。その検討の際、むしろもっとも問題となるのは、「超越論的歴史」からの脱出法として陥りがちな「否定神学システム」への批判であった。「超越論的歴史」は、無矛盾な完全な体系を志向する。ゆえに、記述不可能な対象の存在自体が否定されるわけだが、このような体系の完全性は、「記述不可能な対象」をただひとつ指し示すだけで崩壊する。
しかし、ただ一つ指し示された「記述不可能な対象」が、「語りえないもの」として逆説的に特権化される場合がある。そのような場合、「唯一の、記述不可能な対象」を空虚な中心として特権化することで、逆説的ながら、「超越論的歴史」を批判する言説もまた安定したシステムを持つことが可能になる。東はこれを「否定神学システム」と呼び、その名の下に、ハイデガー、前期ウィトゲンシュタイン、ラカンなどを一様に批判したのだった。
そして、そのような「否定神学システム」から逃れる可能性があるとされるデリダについて、東は以下のように書いていたのだった。
ラカンにとって「不可能なもの」は単数、ひとつである。だからこそ、フロイトもポーも自分も同じ「不可能なもの」に直面することができる。(中略)他方デリダにとって「不可能なもの」とは複数であり、決してひとつではない。
女性のしっとりした肌のように柔らかいんだろうな・・・
それを戦闘時に自在に硬度操ってるからあんな事できると思う。





